1974.3 貨物列車大減便
モータリゼーションの拡大などが重なり、この頃には既に旅客営業の売り上げで貨物運用を補填するような格好となっていた。
1977.3 実業家・帷子舎人氏に合併計画を打診
当時経営危機に直面していた河鉄は、地元で百貨店(現在の鍛冶町富土百貨店)やバス会社(現在の川鉄観光バス)を経営していた帷子氏率い
る富土興産に合併計画を持ちかけた。
1977.7.1 村上鉱業と富土興産が合併、富土開発となる
鉄道事業は富土開発株式会社鉄道部の直轄事業となり、河獺鉄道の名はいったん消滅した。以後、帷子社長率いる大胆な経営改革が行われ
る。このころ電車の塗装を富土興産のイメージカラーである黄色と赤色に変更する案も浮上したが、反対意見が多く結局採用されなかった。
1978.3.1 特急列車廃止
新社長・帷子氏による経営方針の転換により観光客向けの列車は急行に一本化された。特急用車両は以後急行として使用。
1978.5.3 村上中央ステーションビルが開業
念願のステーションビルが村上中央の駅舎横に完成した。スーパー「長崎屋」などが核テナントとして入居した。規模は小さいが地下通路も完成
した。
1978.10.1 80系電車を国鉄から導入。初の固定編成列車。
国鉄で余剰となった車両の導入を開始、4両編成でおもに急行として運行された。2500型は普通運用に格下げされた。
村上公園内に村上青木競馬場が完成したことによる。
1979 100型引退
開業時から使用され老朽化が進んでいた100型がこの年をもって引退、103号がモニュメントとして保存された。(現在は河獺駅前に展示)
1979.12.31 村上エンペラーホテルが開業
12階建てで、当時の最新技術が集められた。大晦日にあわせて帷子社長主催のパーティーが開催されたという。同時に川獺温泉の「ホテル
河鉄」も「川獺エンペラーホテル」に改称。
1982.11.1 165系・455系急行型電車導入
急行の増発・サービス改善に貢献した。また、80系の一部が普通運用に充当されたことにより老朽化の進んだ100型・200型は全車廃車、1000
型の廃車も開始された。
1985.3.1 国府野原駅開業
富土開発国府野原ニュータウンの完成に伴う。
1989.3.1 貨物輸送廃止、村上貨物線廃線
村上炭鉱の閉山などが原因。
1989.5.3 帷子舎人社長、死去
享年88歳。後任は帷子氏と対立関係にあった利土也氏。